東京高等裁判所 平成12年(け)10号 決定 2000年5月19日
主文
本件異議の申立てを棄却する。
理由
本件異議の申立ての趣意は、弁護人神山啓史作成の異議申立書に記載されているとおりであるから、これを引用する。
所論は、要するに、被告人は、第一審において無罪判決を受けており、被告人を勾留する理由も必要性も全くないにもかかわらず、被告人に対して、罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があり、刑訴法六〇条一項各号の理由があるとして被告人を勾留した原裁判は違法であるから、原裁判を取り消した上、被告人の勾留について職権を発動しない旨の決定を求める、というのである。
そこで、一件記録を調査して検討するに、本件につき職権により被告人を勾留した原裁判は正当であり、所論のような違法はない。以下、所論に従い、当裁判所の判断を示すこととする。
一 本件勾留に至る経緯
1 本件公訴事実は、「被告人は、平成九年三月八日深夜ころ、東京都渋谷区円山町<番地略>××荘一〇一号室において、甲野花子(当時三九年)を殺害して金員を強取しようと決意し、殺意をもって、同女の頚部を圧迫し、よって、そのころ、同所において、同女を窒息死させて殺害した上、同女所有の現金約四万円を強取したものである。」というのであるが、被告人は、平成一二年四月一四日東京地方裁判所刑事第一一部(以下「原裁判所」という。)において、本件公訴事実につき無罪の判決を受けた。
無罪判決の理由の骨子は、「××荘一〇一号室の水洗便所の便器内から発見されたコンドーム内の精液及び同室から発見された陰毛の血液型やDNA型が被告人のそれと合致しており、精液の精子の状況が被害者の殺害時期と矛盾しないこと、被害者のショルダーバッグの取っ手から被告人と同じB型の血液型物質が検出されていること、被告人が犯行時に一〇一号室の鍵を所持していたとまではいえないが、犯行時に一〇一号室が空室であることは熟知していたこと、被告人には現金奪取の動機は否定できないこと、被告人が犯行時刻に一〇一号室に存在することは十分に可能であったこと、被告人が被害者とは面識があったのに、捜査段階では、これを否定する行動に出ていたこと等の事情が認められ、被告人が本件の犯人であると推認することができるように思われる。しかし、本件コンドームの遺留、第三者の陰毛の存在、被害者の定期券入れ及び被害者の一〇一号室の独自使用の可能性について、解明できない疑問点が残り、結局、検察官が主張する被告人と犯行との結びつきを推認させる各事実を総合しても、いずれも反対解釈の余地がなお残る事実として、不十分なものであるといわざるを得ない一方で、被告人以外の者が犯行時に一〇一号室内に存在した可能性が払拭しきれない上、被告人が犯人だとすると矛盾したり合理的に説明が付けられない事実も存在するというほかはないから、被告人を本件犯人と認めるには、なお、合理的な疑問を差し挟む余地が残されているといわざるを得ない。」というのである。
2 同年四月一八日、東京地方検察庁検察官は、右無罪判決について、事実誤認を理由として控訴を申し立て、併せて、原裁判所に対し、控訴裁判所に本件訴訟記録が送付され、同裁判所において被告人の身柄についての判断が可能となるまでの間、被告人の身柄を確保すべき緊急の必要性が存するので、職権により、被告人に勾留状を発付されたい旨の職権による勾留状の発付要請の申立てを行ったが、原裁判所は、同月一九日、職権を発動しない旨の判断をした。
3 同日、東京高等検察庁検察官は、当庁に対し、被告人には刑訴法六〇条により新たにその身柄を勾留すべき事情が明らかに認められるので、当庁において被告人を勾引の上勾留状を発付されたい旨の職権による勾留状の発付要請の申立てを行ったが、当庁第五特別部は、同月二〇日、本件については、原裁判所で無罪の判決が言い渡されたばかりであり、現時点では、訴訟記録が当裁判所に到達していないから、刑訴法九七条二項、同規則九二条二項の解釈上、当裁判所は本件について被告人を勾留する権限を有しないとして、職権を発動しない旨の決定をした。
4 同年五月一日、本件の訴訟記録が当庁に到達し、本件の控訴事件が当庁第四刑事部に配点されたことに伴い、東京高等検察庁検察官は、同部に対し、被告人につき職権による勾留状の発付要請の申立てを行った。同月八日、同部は、受命裁判官により被告人に対する勾留質問を行い、同日、被告人に対し、刑訴法六〇条一項各号の理由があるとして、職権により勾留状を発付した。
二 所論に対する判断
1 所論は、被告人は、本件について、原裁判所で無罪判決を受けており、このことは、被告人には犯罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がないことを何よりも示している、刑訴法三四五条が無罪の判決により勾留状が失効するとしているのは、そのような判決があったことそれ自体で、勾留の前提である「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」が消滅したと考えているからにほかならない、と主張する。
しかし、刑訴法六〇条によると、裁判所は、被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある場合で、同条一項各号に定める事由があるときは、被告人を勾留することができることになっており、その時期については、何らの制限もないのであるから、第一審裁判所において無罪判決が言い渡された場合であっても、検察官が勾留の判決に控訴を申し立て、控訴審裁判所(受訴裁判所)に一件記録が送付された以降は、控訴審裁判所は、控訴審の審理を始める前であっても、一件記録を検討して、被告人に「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」があるかどうかを判断することができ、そして、被告人に同条一項の要件があり、かつ勾留の必要性が認められる場合には、被告人を勾留することができるものといわなければならない。検察官の広範な上訴権を容認する現行刑訴法の解釈として見た場合、刑訴法三四五条が所論のような見解を前提としているものとは思われない。第一審裁判所による無罪判決の存在は、被告人に「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」があるかどうかを判断するに当たって慎重に検討すべき一事情にとどまるものというべきである。
そして、一件記録を精査検討すると、被告人が本件強盗殺人の罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があることは明らかである。
なお、所論は、当庁第五特別部の決定を援用し、無罪判決により勾留状の失効した被告人の身柄を再び拘束するためには、再度の拘束を正当化する何らかの事情が必要であると主張し、控訴審裁判所は、勾留の要件としての「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」については、控訴審の審理を行っていない段階においては、第一審判決の判断に拘束され、また、仮に控訴審裁判所が無罪判決に拘束されることなく独自に判断できる場合があるとしても、それは控訴審が審理を遂げ有罪の心証を固めた場合や、少なくとも、控訴審の審理において、検察官の事実取調べ請求が認められて新たな証拠が取り調べられ、証拠状況が第一審と異なった場合でなければならない、控訴審裁判所が送付された記録を読んだだけで無罪判決に容喙できるとすれば、刑訴法三四五条を空文化し、同法三七二条以下の控訴審審理の規定に違反し、適正手続を保障した憲法三一条、一事不再理を定めた同法三九条前段にも違反する、というのであるが、所論の援用する当庁第五特別部の決定の判示部分は明らかに傍論であり、その当否につき直接言及する必要は認められないし、その余の所論は、前記のとおり、刑訴法六〇条の趣旨や、検察官の広範な上訴権を容認する現行刑訴法の規定を前提にすると、採用し難い独自の見解というべきである。
2 所論は、被告人には刑訴法六〇条一項各号の事由が存在しないし、被告人を強制退去させないために勾留しておくというのは、明らかに勾留の濫用であり、同法六〇条、憲法三一条、三四条に違反する、というのである。
しかし、被告人は、第一審の無罪判決後、東京入国管理局庁舎に収容されていたもので、住居不定であることは明らかであり、刑訴法六〇条一項一号に該当する。
次に、本件事案の内容・罪質、被告人の供述態度、第一審の審理状況等に照らすと、被告人が犯行当時居住していた○○ビル四〇一号室の同居人等の関係者と通謀するなどして、××荘一〇一号室の鍵の返還状況、被告人の借金返済状況、犯行当日の被告人の行動状況等について、罪証を隠滅するおそれがあり、同条一項二号に該当する。
さらに、被告人は、第一審の無罪判決の言渡しにより従前の勾留状が失効した結果、被告人の退去強制手続が開始されており、退去強制が行われた場合、被告人は本邦外に出て控訴審裁判所の審理手続を回避する結果となるから、同条一項三号の「逃亡すると疑うに足りる相当な理由がある」場合に該当する。
そして、以上の諸事情にかんがみれば、控訴審において本件強盗殺人被告事件の適正かつ迅速な審理を実現するためには被告人を勾留する必要性も認められる。本件においてそれは、控訴審では原則として被告人に出頭義務のないことや、弁護人が送達受取人として選任されていることによっても左右されないというべきである。
したがって、被告人に勾留状を発付した原裁判に所論のような刑訴法六〇条、憲法三一条、三四条の違反は存在しない。
よって、本件異議の申し立ては理由がないことに帰するから、刑訴法四二八条三項、四二六条一項により主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 高橋省吾 裁判官 青木正良 裁判官 村木保裕)